東京愁情乱行記

怠けることに一生懸命

某精神科にて

現在、私は某精神科の中に居る。「自主活動」という名の自由時間に於いて、この文章を書いている。毎日のプログラムは選択制であり、集団に於けるプログラムと個人作業である「自主活動」とが選べるようになっている。生来不精の私は当然のごとく毎日この「自主活動」を選択し、PCで動画を観るなど、自宅と殆ど変わらぬ日々を送っている。僅かな違いと言えば、周囲に疎らに人が座っている程度のことで、はなの頃は彼らの目を気にすることもあったものの、一週間もすれば気兼ねなく「自主活動」に耽るようになった。

この様に言うと甚だ楽な生活にも聞こえるだろうが、其の実、私にとっては大きなストレスであることは断わっておきたい。

最大の苦痛は朝である。ここ数か月もの間、まったくの昼夜逆転生活を送り、遂には引きこもり同然の生活を送っていた私にとって、朝9時までに病院に辿り着くということ自体、極めてパッシブな、拷問めいた苦痛を覚えるものである。幸いにして実家のマンションから病院まで10分程度であるから、例え8時過ぎに起きたとしても、先ず遅刻するということは無い。只、8時に起きる事すら、私にとっては甚だ難儀なことであった。冴え冴えしく晴れ渡った故郷の空とは裏腹に、私の心はいつも酷く陰鬱としていた。

プログラム自体は、先に言及した通り、何ということは無い気楽ものである。この場に辿り着きさえすれば、縦しんば全員参加必須のプログラムであっても、挙手や発言を強いられることも無ければ、無理に集団に入れられることもない。ただ他の参加者やスタッフの意見と議論を棒のように聞き、勿論それに対し反意を覚えることもままあるが、大抵は頭を垂れて手を揉みつつ、たまに発言者の顔を眇に見やるのみである。参加者は自由に思ったことを発言し、甚だ私的出来事の梗概を語ることもあれば、特定の人物を批判するような口吻のときもある。その多くは私の関心の至らぬものであるが、時々成程と内心はたと手を打つこともある。この病院のプログラムは、端的に言えば、こうして自分の意見を述べたり他者の発言からフィードバックを得たりして、自分の問題点や傾向を模索しつつ、社会復帰を目指す治療の場なのである。有体に申し上げると、はな私はこの治療の意義に疑問を覚えていたが、現時点に於いては、真に批判的批判を行うに足る判断材料も伎倆も無いので、この点については、もう少し時を経てから考えることにしよう。

 

しかし、喫煙所に於ける私の何気ない一言から、思いもよらぬ気付きへと談柄を落とすことが有った。それは全くの無意識のことで、雷鳴のごとく激しい驚きと同時に、運命めいた、渾然かつ魅惑的世界への淫入を意味していた。そこに惑溺しかねぬ不安と、ともすれば淫らな期待とが綯交ぜになり、高揚と奮激が鞭打つように全身を震えさせたのであった…

 

 

(続くかどうかは不明。実際に精神科でこのブログを書き、下書き保存しておいたのを思い出したので、掲載した次第)

自由という拷問

平日だというのに、往来は行き交う人々で溢れかえっていた。大通り公園沿いの道は雪山で狭まり、大人1人がやっと通れる程しかない。踏み固められた雪道はまったく平坦でなく、氷と化したツルツルと滑る凸凹に足をとられ、歩き難いことこの上ない。さらに、所々に置き去りにされた自転車が雪に埋まっており、足下を注視しなければ危うく足をひっかけてしまいそうな具合である。雪もチラホラと降っており、あまつさえ耳が取れそうな程の冷気が身体に吹き付けてくる。

雑踏のなかで耳を澄ますと、あまり聞き慣れない方言や外国語が飛び交っている。明日から開催される「さっぽろ雪まつり」を目当てにやってきた観光客なのだろう。彼らにとっては差し詰め前夜祭といった心持ちだろうか。それでもこれほど多くの人が集まるのだから、当日はすし詰め状態で組んず解れつの雪見合戦になること請け合いである。私が最後に「雪まつり」に行ったのは、まだ小学生ですらない時分であったから、当時の記憶なぞ曖昧かつ断片的なものだ。覚えていることといったら、大人の膝のあいだをくぐり抜けながらチョコレートを買ったことと、初めて飲んだ甘酒が不味かったことくらいである。いずれにせよ、それから18年もの間行く気が起きなかったのだから、決して良い記憶ではないのだろう。そもそも、地元の人間にしてみたら、雪なんてものは見慣れているどころか見飽きているくらいであって、そんな心持ちでわざわざ雪を見る為に足を運ぶことなど、到底あり得ないのである。

さて、不世出の出不精(要するに引きこもり)の私がこうして散歩をしたのには実は訳がある。訳と言っても、これといった特別な用事があったわけではない。端的に言うと、あまりにも暇だったのである。暇すぎて肋間神経がキリキリと痛むほどである・・・

東京での引きこもり生活も甚だ退屈ではあったが、ネット環境も充実していたし、誰に気を遣う必要もなく、また数日おきに会いに来てくれる人もいたから、例えるならば夏目漱石の随筆「硝子戸の中」のような心持ちで、自由に翻弄されることも少なく、平穏無事に過ごすことが出来た。それに比べて実家のマンションにおける引きこもり生活は、ドストエフスキーの「地下室の手記」のごとく、何かしら病的な雰囲気を纏っており、一日中苦痛を伴うものである。高層マンションであるから、見晴らしは良いし、日中は親は仕事に出払っているので誰に気を遣う必要も無いのだが、かといって気が紛れることは片時も無い。ドストエフスキーは「自意識は病気である」というようなことを言ったが、けだし至言だと思う。何もすることが無いと、頭のなかで常に流れ続ける妄想夢想といった自意識が、日々ごとに心をすり減らしていくのである。

ラッセルは「幸福論」に於いて「退屈こそ拷問である」などと言っていた。私は昔から「理想の生活はソローの『森の生活』のような、ニートのごとき生活である」などと嘯いてきたものの、今ではラッセルにいたく共感する。要するに、「自由」というものは、日常生活における何かしらの「負荷」があってこそ価値のあるものとして輝きを放つのであり、何もやるべきことが無いような時間は「余暇」ではなく、虚無に鞭を打たれ続ける「拷問」に他ならない。ラッセルは「怠惰への讃歌」という著書も残しているが、この本に於いては「仕事」言い換えるならば「負荷」を人生の生き甲斐として位置付けることを否定的に書いてはいるものの、ある程度生活の中に仕事や学問といった「負荷」をおくこと自体は一切否定していない。つまり、ラッセルの言うところの「余暇」は日常生活における「負荷」を前提としているのである。ラッセルは「人生の真の喜びは余暇にこそある」と断言していたが、これは決して「完全なる自由(暇)」のことを言っている訳ではないのだ。或いはエーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」のなかで、人々は「負荷」からの自由を求める一方で、実際に自由を得た途端に、無気力感や孤独感を味わうと言う皮肉な状態に陥ってしまうことを指摘している。この極めて皮肉な現象こそ、まさに私が現在直面している問題なわけである・・・

これまで色々と小難しいことを述べたが、有り体に申し上げると、とにかく猛烈に暇なのだ。暇がこんなにも苦しいものなら、授業を受けることくらい何ということも無いとすら思えてくる。もちろん今でも仕事こそが人生の喜びとは思わないが、やはり人間というのはある程度の負荷があってこそ人間足り得るのであり、そういった連続した負荷のなかに存在する「余暇」こそが、ラッセルの言うように、人間にとって至上の喜びとなるのである。

こういった理由で、完全なる自由を持て余し、苦痛に耐えきれなかった私は、思わず外に飛び出してしまったという次第である。今日もまた、「新しいメガネを買う」という、鬱病の私にとっては考えたくも無いほどの負荷ではあるが、そうは言っても「自由という拷問」を受けのであれば、まだしも救いがあると思い、力の入らぬ身体に鞭を打って、いそいそと外出の準備に取りかかるのである・・・

「徳島~東京 自転車の旅」3月13日

コロッケクラブでは比較的よく眠れたと思う。会計の際、店員が話す熊本弁が新鮮であった。九州というと博多弁を想起してしまうが、熊本弁はどことなく東北や北関東を思わせる訛りだった。いくぶん粗野に感じられるような喋り方であったが、かえって懐かしさや温かみを感じて、親近感を覚えた。

カラオケを出た後、まずは汚れた服をクリーニングをすることにした。鹿児島までのストックが無かったし、何より数日間風呂に入っていなかった為、髪と体の気持ち悪さが限界だった。もちろん冬であるからそこまで汗をかくわけではないのだが、自動車の真後ろを何十時間も漕ぎ続けるわけだから、汚れの原因は排気ガスや埃によるものだった。ただ、12日と13日は雨の予報であったのに、全く雨に濡れることなく走れたのは全く幸運であった。

クリーニングを終え、我々は日奈久温泉に急いだ。普段は清潔さに関しては比較的無頓着であるが、この時は川にでも飛び込みたくなるくらい、とにかく髪の毛を洗いたい一心だった。温泉に到着したのは昼ごろだった。どうやらかなり歴史のある温泉らしいが、街は閑散としていてどこか寂しい印象があった。快晴ならもう少し明るい印象を受けたのかもしれない。

温泉センターに着くと、熊本城で出会った一行の自転車が並べて置いてあった。自転車で旅をする人達にとって、温泉ほどありがたい存在はないのだ。ついでに温泉以外で欠かせない存在と言えば、コンビニ、コインランドリー、宿泊地(カラオケやネカフェ)だろう。さて、温泉センターに入ると、溌剌とした体格の良い若旦那が出迎えてくれた。中はそこまで大きく無く、これといった特徴も無かった。貸タオルが無かったので、仕方なく1枚購入した。温泉はと言えば、シャワーが妙に滑りっ気があり、ボディーソープを流した後にも何かスッキリしたい感じであった。ただ髪の毛を綺麗にすることが出来たから、それなりに満足した。風呂から上がると、先程購入したタオルをゴミ箱に捨て(荷物が限界だった)食堂にて長崎ちゃんぽんを食べた。これはかなり美味しかった。

温泉を出て、出水に着いたのは夜だった。出水については何の前情報も無かった為、かなり小さな町を想像していたのだが、駅は思った以上に綺麗だった。ライトアップに映えるSLが印象的であった。夕食を探すことになり、ネットで調べてみると、出水市は日本でも有数の鳥・卵の名産地らしく、最近ではそれらを使用した「親子ステーキご飯」というご当地グルメに力を入れているらしい。是非食べてみたいと思った我々は、「魚松」という料理屋に入り、「親子ステーキご飯セット」を注文した。親子丼のようなものを勝手に想像していたのだが、肉を鉄板で焼き、卵を卵かけご飯と目玉焼きにして食べるというシンプルなものだった。食材の美味しさをそのまま味わって欲しいということだろうか。

恥ずかしながら、私は鶏肉なんてものは安い物も高い物も大した差は無いと思っていたのだが、それは大きな誤りであったと猛省することになった。肉はほとんど生のまま食べられるほど新鮮で、柔らかく、ほんのりと甘かった。ソースをつけるよりも、岩塩で食べるのが一番だった。卵かけご飯や目玉焼きも今まで食べたことの無い美味しさだった。また、女将さんもとても親切な方で、お土産にと大きなみかんを4つも頂いた。正直荷物をこれ以上増やしたくない我々にとっては有難迷惑と言わざるを得ないが、気持ちだけは涙が出るほど嬉しかったので、ありがたく頂戴した。

魚松を発ち、「グランデリゾート」なるネカフェに宿泊した。ネット回線が非常に重く、ろくにアニメも観られ無かったのは残念だったが、フラットタイプの寝心地はとても良く、快眠することが出来た。

 

 

 

「徳島~東京 自転車の旅」3月12日

ここ数日の間、とくに太宰府あたりから、ただ目的地に着くために自転車を漕ぐだけで1日が終わっていたような気がする。道中、特に観光するようなところもなく(正確に言えば、この極度に疲労した状態でも寄ろうと思える場所が無かった)少し退屈に感じなくもないが、飛行機はすでに予約していたから、何がなんでも15日には鹿児島に着く必要があった。

この日、自転車で旅をしている人にしか伝わらないであろうことに1つ気が付いた。距離の感覚というのは、気持ちによって相当に変化するということだ。いや、距離というよりは時間と言った方が正しいかもしれない。残り70kmのうちの20kmを走るのと、残り20kmの20kmを走るのとでは、まったく感覚が違うのである。前者は「気付いたら終わっている」というような、要するに非常に楽に感じるわけだが、後者は逆に「いつになっても終わらない」という感覚がある。ゴールを意識し始めた途端にゴールが遠ざかってしまうような、不思議な感覚なのだ。残り20kmを走っているときには、1時間が2時間にも3時間にも感じられる。なかなか減らない数字は、精神的に相当我々を疲れさせるものなのだ。だから、なるべく距離はあまり意識しないで走る方が賢明である。

さて、山鹿ポパイを出た我々は熊本城へ向かった。この日はなかなかのナイスランであったと思う。それは、山鹿と熊本を結ぶサイクリングロードのおかげだろう。ところどころ道が分かりにくかったり、キャリアーごと荷物が吹っ飛んだりもしたが、風も無く、概ね順調に進むことが出来た。やはり、車の横を走らないで済むのはうれしい。全国にもっとこのような長距離のサイクリングロードが出来れば良いのに、と思う。

熊本城に到着したが、やはり疲労もあってか、そこまでの感動も無く、1時間ほどで熊本城を後にした。ここで、同じように鹿児島を目指していると思われる5人組に遭遇し、彼らとは後に日奈久温泉で再会することになる。

熊本城を出た後、友人の自転車に空気を入れる為「川島サイクル」にお世話になった。店主は最初は何となく上から目線で頼りない印象を受けたが、話してみると案外いい人であると判明した。なんでも、6年前にママチャリで180km11時間で漕いだことがあるのだとか。6年前の話をいまだにするんかい、と思わなくもなかったが、見たところかなりの高齢だし、素直にすごいなと感心した。

その後、我々は八代に向かった。八代ではカラオケ「コロッケクラブ」に宿泊した。20時から翌日10時まで居座って2000円という破格の安値であった。

「徳島~東京 自転車の旅」3月11日

ネカフェを出た後、博多ラーメンとチャーハンを食べ、太宰府に向け出発した。太宰府についたのは1時ころであった。睡眠時間を優先するあまり、出発時刻がどんどん遅れてしまうのは考え物である。夜にはなるべく漕ぎたくないと言いながらも、結局毎日夜に走ることになってしまっている。しかし、皮肉なことに、我々が一番集中して漕げるのは夜なのだが。

太宰府に着き、天満宮で参拝を済ませた後、「通りもん」や「甘酒まんじゅう」などを食べていると、いつの間にか時刻は16時を回っていた。当初の予定では熊本まで行くつもりだったのだが、16時から70kmを漕ぐのは流石に頭がおかしいということで、ここらで予定を再考することに決めた。話し合いの結果、14日の指宿温泉を断念し、この日は熊本の山鹿まで行くことにした。

この日も、相変わらずネカフェのお世話になった。

「徳島~東京 自転車の旅」3月10日

下関までは10km程度だったが、存外時間がかかってしまった。下関に着くと、すぐに昼食をとった。高級回転寿司店に入ることにしたのだが、どうやら人気店らしく、平日というのに人で溢れていて、我々も30分程度待たされた。名産であるふぐ、くじらを食べようと思ったが、ふぐは大阪でも食べたので、今回はくじらを中心に食べることにした。赤身、ベーコン、竜田揚げなどを食べたが、なかでも「さえずり」という部位が最も美味しかった。「さえずり」というのは舌らしい。大トロのような柔らかさと、牛肉のような甘さがあって、まさしく絶品であった。また機会があれば食べてみたい。他にもいろいろと食べ、合計4000円以上になってしまった。しかし、回転寿司でここまで満足できることもあまり無いだろう。

市場を出て、下関人道トンネルを通り、我々はついに九州に上陸した。人道トンネルは10分もかからないくらいの距離だった。ともかく、我々は長く辛かった本州の旅をひとまず終え、北九州市に入った。北九州に到着してまず最初に感じたのは安心感であった。というのも、四国・中国地方と言う、言ってみれば「田舎」を通ってきた我々にとって、都会的な街並みはどこか帰京に近い感覚があり、少しだけ日常感を取り戻すことが出来たからである。

中洲に着いたのは21時近くだった。下関から中洲までは約80km。朝に20km近く漕いだので、この日は100kmくらいは漕いだことになる。水炊きの店を探し、「華味鳥」という店に到着。気品のある女性店員と、優しい主人の厚いもてなしに、我々は痛く感銘を受けた。料理の味もさることながら、どう見ても不衛生な我々を快く受け入れ、温かくもてなしてくれたことに感涙を禁じ得なかった。また来たくなるような、そんな名店であった。

水炊きを食べ終え、この日はネカフェに泊まることにした。この旅では幾度となくお世話になっている「ポパイ」である。毎度のことながら12時間パックをとり、ぐっすりと眠った。

「徳島~東京 自転車の旅」3月9日

徳山を出発し、下関へと向かう。この日も100km近く進む予定だったので、気合は十分に入っていた。余談だが、初日の徳島港から三好までの走りがかつて無いほど良かった為、我々は気合を入れて漕ぐことを「三好ラン」と呼んでいた。この日も、「三好ラン」をしようと意気込んでいたのだが、残念ながらそう上手くはいかなかった。

「山口」とはよく言ったもので(実際の由来は知らないが)道中は延々と山と畑が続いていた。手を抜いては知っているわけではないのに、全然進んでいる実感が得られないのである。同じ景色が何時間も続いていたことが原因だろう。畑の横をひたすら走り、山を抜けると、また畑があり、向こうに山が見え、その山を抜けるとまたその向こうに山が見えてくる…この繰り返しであった。友人がポツリとつぶやいた「マトリョーシカかよ」というのは蓋し至言である。大小はあれど、似たようなものが続くのだから。あまりにくだらないので口にはしなかったが、私は心のなかで「マトリョーサカ(坂)」という単語を生み出した。今夏に計画している北海道旅行のことを思うと非常に不安である。

あまりに見通しの見えない行程であったから、とりあえずの目的地として「ドライブインみちしお」を目指すことにした。天然温泉ということを知り、我々は大いに期待していた。

明らかに自転車は通ってはいけない道をひたすら走り(故意ではないが)何とか到着することが出来た。温泉は、何と言うか、期待していた「温泉宿」という感じではなく、どちらかと言えば大衆向けの銭湯といった雰囲気だった。温泉に入った後は食堂でカツカレーと貝汁を食べたのだが、金髪の怖い兄さん達が騒いでおり、あまり落ちけなかった。

時間も遅かったので、そろそろ下関に向けて出発しようかというとき、友人が体調不良を訴え始めた。この日のうちに下関に着かないのはかなりの痛手だったが、雪や豪雨に見舞われるなか、風邪も引かずに走り続けてきたことの方が奇跡といっていい。やむなく、我々は下関行きを断念した。

かといって、周囲には今から泊まれそうな場所は無く、とりあえず23時までは温泉内のリラクゼーションスペースで仮眠をとり、温泉を追い出された後、警備員の方に事情を話して、店の前でテントを張らせてもらうことにした。

まあ一晩くらいはなんとかなるだろうと高をくくっていたのだが、マットも敷かずにコンクリートの上で寝るのは想像以上に難儀であり、その上ネットで買った安物のテントが夏用のオープンタイプで風通しが非常に良く、夏であればそれでもいいのだろうが、外は真冬並みの気温で雨も降っていたし、おまけに小さなテントだから満足に脚を伸ばすことも出来なかった。これでマトモに寝られる方が異常なのだ。

そんな劣悪な状況でも、疲労のあまりに寝袋にもぐりこみ目を閉じると、すぐに眠ることは出来たのだが、夜中に何度も寒さで目が覚めた。友人と喧嘩するという悪夢も見た。3度目くらいに目を覚ましたとき、「このままでは確実に死ぬ」と直感した私は、救急用サバイバル毛布を取り出し、身体に巻きつけた。よく考えれば、オープンになっているところにそれをかぶせれば風を遮断出来たのだろうが、そんな思考能力は残っていなかった。

そうして死んだように朝7時まで耐えた後、朝風呂に入り、友人の体調もいくらかマシになったようなので、下関に向けて出発した。